Yukio Shakunaga
「スティーブ・ジョブズと越中瀬戸焼」
金木 静
スティーブ・ジョブズ死す―。
僕がこのニュースを最初に知ったのは、携帯電話のサイトでだった。記事の本文はまったく読まなかった。彼がどんな病気だったのか、あるいは死因は何だったのか、僕にとってはそんなことはどうでもよかったのだ。ただ、彼が地球上の何処にもいなくなってしまったこと、それだけが寂しくてたまらなかった。「ジョブちゃんが死んだよ」妻に言ってみたが、台所仕事をしていた妻はまだ何も知らなかったらしく、はぁ?といった顔でほとんど相手にしてくれなかった。すごすごと自室に戻った僕は、静かに目を閉じてみた。黒い一個の抹茶茶碗が思い浮かんできた。まるで宙にぽっかりと浮かんでいるみたいに。その茶碗の持つ美しさをどう表現したものだろう・・・。茶道にも陶芸にもあまり詳しくない僕には、どうも的確な言葉が出てきそうにもないのだが、何とか試みてみよう。その茶碗、正しくは「半筒茶碗」と言う。ちょっと見には、極めてオーソドックスで何の変哲もない黒の茶碗でしかない。ふつう、黒の茶碗にはチェロの音を聴いているような重厚な響きがあるものだが、その茶碗には重々しさがいっさいなく、もちろん、だからといって軽々しいわけでも決してなく、何かバイオリンの無伴奏でも聴いているかのような、妖しくも心地いい響きがあり、明らかに茶碗という物体であるくせに、そこに「存在している」わけでなく、そこに「佇んでいる」としか言いようのない不思議な透明感が漂っていた。しかも、実際に手にとってみると、あらかじめ誰かの掌にあったかのような体温さえ感じられる。そう、もっと大胆な例えをすれば、それは女性の肌のような美しい茶碗だったのだ。16年前の春、僕は京都行の列車に揺られ、その茶碗のことばかりを思い浮かべていた。越中瀬戸焼・釈永由紀夫君の京都での初めての
個展に行くのが目的だった。彼とは40年近くの付き合いになるが、僕が個展に出向くことはとても珍しい。彼の仕事場で日常的に作品を目にしているわけだから、その必要性を感じなかったのだ。なのにどうして、京都くんだりまで行く気になったのか。彼の京都での初個展ということもあったが、この個展にこそ、僕がバイオリンの音色を連想した黒の半筒茶碗が出品予定だったからに他ならない。この時期、彼は目を見張るような出来栄えの茶碗を次々に生み出して
いた。その多くは黒もしくはベージュの抹茶茶碗だったが、彼の作品を青年期のものからずっと見てきた僕としては、何かが乗り移って別人の彼を見ているような気さえしたものだった。物作りであれスポーツであれ、階段を一段ずつ上るように着実に上昇するものではない。ある日突然に、何かを切っ掛けとして飛躍的に上昇するものだ。不断の努力さえ続けていれば、作家や選手には必ずそんな節目が訪れる。ではこの時期、彼に何があったのか―。実は、つい最近になって彼から直接聞いたことなのだが、この個展の半年前、彼は長年師事していた備前の恩師を亡くしている。その墓参の帰りに京都に寄り、ひょんなことから京都での初個展を決めたのだという。僕はなるほどと思った。作家が大きな飛躍を見せる時は、ほとんどの場合そうした霊的作用があるものなのに違いない。話題が逸れてしまった。舞台を16年前の春の京都に戻そう。
彼は総数で約70点の作品を、抹茶茶碗だけなら10数点の作品をこの京都個展に出品している。うち黒の茶碗は7個ぐらいだったように思う。僕はすべて売れてしまうだろうと、予感がしていた。特に僕が気に入った黒の茶碗は一個も残らないのではないか、もう二度と見られなくなってしまうのではないか。つまり、僕はそんな寂しさから、気に入った茶碗の最後の晴れ姿を見届けるために京都くんだりまで足を運んでいたわけだ。
そしてその初日、僕は10分程度も会場にいただろうか。お目当ての茶碗が京都という街に展示されている、その事実を確認さえすれば僕の用は完了したわけだから、それで充分だった。そして僕は散歩に出た。夜になって、釈永一家と食事をするために待合せの店に行った。一人だけやたら興奮して騒いでいる若い女性がいた。東京から応援に駆けつけた釈永君の姪御さんだった。なんでも、スティーブ・ジョブズというアメリカ人が夫人と連れだってふらりと入って来て、茶碗や花入を何個も買っていったという。そんなこと言われても、釈永君も僕も、当時はジョブズのジョの字も知らず、何を興奮しているのかまるで分からない。すると姪御さんは、「あのね、スティーブ・ジョブズが個展に来たってのはね、例えばジョン・レノンが入ってきてお茶碗を買ったようなものなのよ。しかもおじさんはジョブズとあれこれ話までしたんでしょ。これってとんでもないことに決まってるじゃない」そう言われても、同席する誰一人としてピンと来てはいなかった。しかし、今にして思えば、釈永君がスティーブ・ジョブズなる人物について完全に無知だったことが、かえって幸いしたのではないだろうか。少なくともジョブズは好きなように京都の休日を楽しみながら好きなように買い物を楽しめたことだろう。その証拠に一週間の個展開催中、ジョブズは三回もギャラリーを訪れている。この京都での出会いを切っ掛けに、ジョブズの名が越中瀬戸焼「庄楽窯」の顧客名簿に載り、その後もずっとお客さんであり続けたことは、すでにあちこちのTVや雑誌で報道済のことなので、ここでは繰り返さない。ただ、中には誤解を招くようなニュアンスでの報道もあったので、簡単に正しておこう。あたかも「ジョブズがデザインの細部にいたるまで要求し、それに応じて釈永君が作っていた」みたいな報道があったが、もちろんこれは大きな間違いでしかない。また、そんなことは不可能なのだし、そう曲解することはジョブズにも釈永君にも失礼というものだろう。
そんなことより、何故かまったく報道されていない面白いエピソードを紹介しておこう。ジョブズ本人も夫人のローレンさんも、釈永君への注文は、いつもファックスで届けて来た。ワープロの場合もあれば手書きの場合もあった。
いったい、アップルのジョブズはどんなメーカーのファックスを所有し、どんな顔して手書きの注文書をかいていたのか・・・それを想像すると微笑まずにいられない。ところで、ジョブズは越中瀬戸焼の何が気に入ったのか、また、釈永君の作品のどこに注目していたのか。そのことが僕の長年の疑問だった。ジョブズ本人と一度でも会ってさえいれば、そのヒントぐらいは感じ取れたのかもしれないが、残念ながらすれ違いになった僕は一度も会っていない。そこで16年前のギャラリーでのジョブズの様子を、釈永君にあれこれと質問して思い出してもらったこところ、次のようなことがわかった。ジョブズは三日間、釈永君に土のことばかりを質問し続けたという。釈永君は白土(はくど)を使って作陶しているのだが、それを「ホワイトクレイ」と直訳して伝えたところ、いっそう質問攻めに会い、白土を見ようと今すぐにでも山まで飛んで行きたそうな勢いだったらしい。(ジョブズは富山が一時間程度で行けるものと勘違いしていたらしく、そうでないと知ってひどくがっかりしたそうだ)。ここで、ジョブズが見たがった白土について、簡潔に説明しておこう。数ある粘土の中でも、白土は粒子が細かく、仕上がりも肌理細やかで繊細な雰囲気になる。陶器が磁器に近づく一歩手前の土、と言えばわかりいいだろうか。僕があの黒い茶碗に、チェロではなくバイオリンの音を連想したのも、白土のこうした特質によるものなのかもしれない。ジョブズが釈永君との英語での筆談で、果たしてどこまで白土の特質を理解したのかは定かでないが、土そのものに興味を示したことは事実で、らしいと言えば言えそうな気がする。そして土に関わる質問の中で、ジョブズは釈永君のもう一つの大きな特徴を知ることになった。ほとんどの陶芸家は粘土を業者から購入して作陶しているが、釈永君は裏山の土を自分で掘って作陶している。こうした土の段階からの手作りスタンスがジョブズの気に入ったのではないだろうか。僕はそんな気がしてならない。考えてみるがいい、青年期の無名で貧乏学生だったジョブズが、ガレージで身の回りのガラクタ部品をかき集めて最初のコンピューターを作ったことを。今、僕が気に入ったあの黒い茶碗は、何処にあるのだろう・・・・。実は、ジョブズが買ったんだろうと16年前から思っている。それでジョブズの死のニュースがそのまま、僕にとっては茶碗の連想になってしまったのだが・・・。16年前、あんなにも気に入った茶碗を、どうして買わなかったのか、これには理由がある。茶道もやらない僕が抹茶茶碗を買ったところで、勝手な使い方をすれば茶碗に失礼になるんじゃないか、そんなことを考えてしまったのだ。その後、僕の考え方は大きく変わり、今なら躊躇いもなく買い、お茶漬けを食べるなりカフェ・オレボールにするなり、好きなように使うことだろう。茶碗とはそういうものなのじゃないだろうか。陶芸家の手許や個展会場にあるうちはまだまだ完成されたわけでなく、使い手の手垢がついて初めて完成に至る。とすれば、どう使ってどう完成させるかは、あくまでも使う側にあるのではないか。ジョブズは茶道をやっていた人ではない。抹茶を飲みはしただろうが、ひょっとしたら好きなボブ・ディランでも聴きながら、すりおろしリンゴを入れてスプーンで食べたりしていたのかもしれない。うらやましい!それにしても・・・と僕は思う。僕の生まれ故郷である立山町の白土が、ひとつの美しい茶碗となって、今はジョブズの遺品としてカリフォルニアにある。こりゃあ、とんでもないことだ、と。